
田舎は神事仏事がやたらと多い。9月の彼岸には、寺で法要が行われる。各家庭でも僧を招いて供養する。我が家を訪れた和尚は私と同い年で、穏やかな人だった。読経後に茶をすすりながら「私ゃ、木魚が叩けなくてね」と言う。木魚のリズムは、読経のリズムの裏打ちらしい。レゲエと同じだ。裏拍が取れない和尚は、本山で大勢の僧と読経する際には、決して木魚に近づかないのだとか。そんな自虐ネタを披露して、和尚は帰って行った。引越して来た私たちへのお近づきの印だったのかもしれない。
10月に入ると、花納め(はなおさめ)という神事がある。我が家に代々伝わるもので、840年続いている。神事の詳細は又にして、とにかく宮柱(みやばしら)と呼ばれる職の叔父夫婦は大変だ。神主と地区の代表者を招いて滞りなく神事が行えるよう、何日も前から準備する。
花納め当日は朝から海でお汐(しお)を汲み、床の間に御供物と一緒に供えて、神主が祝詞を奏上すると、神事は終わる。所要時間は約1時間。しかし、その後の直会(なおらい)と呼ばれる会食が長く、特に今年は用意した酒が尽きるまで続き、夕方になって閉会した。
花納めの主役は、酒豪の神主だった。酒を呑みながら、神代の昔からガザ・イスラエル紛争に至るまで、あらゆる話題でトークを繰り広げた。皆はその話に聞き入り、時々質問したり、自分の経験を話したりして参加する。神主はそれに応えて、新たなトークを展開する。サービス精神旺盛な人だ。
花納めが840年も続く理由はわからなかったが、叔母が言った「これで、今年も終わった」の一言に尽きる気がする。毎年淡々と儀式を執り行う。その後に皆で呑んで祝って帰る。その小さな達成感と幸福感が、何世紀にも連なる信仰心の本質かもしれない。
神事も仏事も継承するのは荷が重いが、羊羹を頬張りながら愚痴る和尚と、麦酒を開けながら薀蓄を語る神主の姿を思い出す度に、独り笑いをして、少し気が楽になるのである。

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