
「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺を知ったのは、社会人になりたての頃だった。入社した出版社がビルの地下フロアを貸し切って、盛大なパーティを催した。新人の私は給仕に忙しかったが、フロアの真ん中に大きな桜の木がディスプレイされていたのを覚えている。暗い照明の中で、スポットライトを浴びた満開の桜は美しかった。新米ながら、センスがいいと自慢に思ったのだった。
ところが後日、会社にクレームが入った。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿という諺をご存知ですか」というセリフで始まった抗議に、上司は真摯に頭を下げたが、私にはよくわからなかった。
あれから35年。私の眼の前には生い茂った梅の木がある。根元には竹まで生えて、庭の一角がもはや林だ。梅は一度丸坊主にしたほうが、後に大きな実がなるらしい。もう切るしかない。
叔父さんに高枝切りばさみを借り、切り方を教わった。しばらく格闘したが、腹圧を入れて少々太い枝まで切れるようになった。こうなると楽しい。夢中で枝を切り落とした。1時間後、梅の木は坊主になり、代わりに枝の山ができた。そこで初めて気づいた…これから、どうするんだっけ?
以前は何でもゴミ袋に詰めて、マンションの下に出しておけば、収集車が来てくれたが、ここではそうはいかない。枝をできるだけ小さくして軽トラに積み、処理場に持って行くのだと教えてもらった。そうなのか、とまた1時間かけて枝を小さく切った。翌朝起きると頭痛がした。熱中症にかかったらしい。半日棒に振り、ベッドの中で「枝を切るなら、始末まで」と標語を考えた。
坊主になった梅の木と高く積まれた枝の山は、今や庭のディスプレイである。庭が片付く頃には、また違う木の枝が伸びる。何度も汗をかいて枝を切って、そのうち梅の木に大きな実がなったら可愛いだろう。
あの日自慢に思ったパーティ会場の桜が、今は不憫に思えてならない。

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