悪路と鹿の皮と自分の足
最近、こういう話を聞きました。お釈迦様と弟子たちの問答です。
「私たちが歩く道には、尖った木片や、ゴツゴツした石があって歩きにくいし、危ない。どうしたら良いと思うか?」と釈迦が弟子たちに尋ねました。その頃は皆、裸足で生活をしていたので、道を歩くことも大変だったようです。お釈迦様の問いに弟子の一人が答えました。「世の中の道をすべて鹿の皮で覆ってしまえば良いと思います。」それを聞いたお釈迦様は「なるほど。確かにそうすれば、歩いて怪我をする人はいなくなるかもしれない。でもよく考えてみなさい。すべての道を鹿の皮で覆うことなんて、本当にできるだろうか。それよりも自分の足を鹿の皮で覆ったほうが良いのでは。それならすぐに出来るだろう。」
靴を履いている現代人からすれば当たり前過ぎて笑ってしまうような問答ですが、少し考えてみると、そこには深い意味がありそうです。
私たちは何か問題が起きた時、つい自分以外のものに原因を求めがちです。「そんな態度を取る◯◯さんが悪い」「これを放っている今の政治が悪い」「今の世の中自体が悪い」…といった具合です。自分を守るために、無意識に他者を責めているのかもしれません。でも、鹿の皮で道を覆うよりも自分の足を覆うほうがずっと簡単なように、他が変わるのを待つよりも、自分が変わるほうが早くて確実です。お釈迦様が説いていることはおそらくそんなことだったのでしょう。
この話は、悪路、鹿の皮、自分の足のそれぞれを社会で起きている様々な現象に例えてみると深みが増します。悪路を「病気」あるいは「コロナ禍」に置き換えたら、鹿の皮と自分の足には何が当てはまるでしょうか?
さらに、悪路を「世界の争いごと」に置き換えたら、果たして残りの2つに当てはまるものは何でしょうか?
私にはすぐには答えが見つかりませんでした。皆さんもぜひ考えてみてください。(正)
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